映画鑑賞会

サークルでやっている映画鑑賞会の感想アーカイブです。

ミリオンダラー・ベイビー

ロードジャスティス A

全てを失うリスクを負ってでも人生のなかで何かを成し遂げたい瞬間がある。ボクサーたちの戦いとはまさにそうした刹那的な衝動であり、繰り出されるパンチから逃げようとする生存本能に逆らって前に一歩を踏み出すようなものだ。止血の達人であるフランキーはノックアウト寸前に追い込まれたボクサーたちを再びリングに送り出してきた。それはボクサーが願う勝利への可能性をつなぐ重要な役割であるが、しかしそれはボクサーの人生を左右しかねない大きなリスクを覚悟の戦いを強いることでもある。ボクサーとしての終わりを迎えても、その後も人生は続いていくのだ。フランキーはそうしてスクラップを失明に追い込んでしまったことを深く悔いており、信仰に救いを求め、選手には最大限リスクを回避させてきた。だが結局はマギーの熱意を無視できず、悲劇的な結末を迎えることになる。中盤までの底辺からボクサーとしてのし上がっていくマギーの姿が爽快なだけに、終盤にマギーが半身不随になる展開はショッキングで辛かった。ただし、本作のテーマはボクサーの刹那的な生き方の悲劇性を強調するものではない。ボクサーとしての生を終えたスクラップはフランキーを恨んではおらず、マギーもボクサーとしての誇らしい死を望むのである。「モ・クシュラ」の意味は「愛する人よ お前は私の血」とのことだが、マギーの死はフランキー自身の一部、すなわちボクサーに寄り添う刹那主義的なフランキーもまたここで完全に死んだのだとも考えられる。闘争の人生は終わり、レモンケーキの店が彼の安らぎの地となったことが暗示されている。マギーの不幸な生い立ちやスクラップの過去など、各人物像もくどくない程度に丁寧に描写されており、ボクサーたちの生き様の光と影をフラットに描く姿勢が好き。クリント・イーストウッドの涸れた感じの演技もストーリーを引き締めていた。

ニンチー 7点/10 物語1、主題2、演出1、映像2、音楽1

感動モノの枠にはまらない、切実な夢と人生の選択について深く捉えた名作。 作中では自らの夢のために全てを懸ける覚悟と長期的に合理的な選択を行うべきだという、対立する二つの視点がマギーとフランキーという二人の主人公として登場する。 このどちらの視点も肯定的にも否定的にも描かれていて、ある種、二つの価値観を揺れ動く人間の葛藤がテーマであるともとれる。 前半と後半で全く違う映画のように感じるのはこれが理由であるように思う。

マギーはトレーラーハウスに住む貧困家庭で育ち、13歳から働いている喫茶店では客の食べ残しを包んで持ち帰るような生活をしている。 毎月の送金や家の購入などの献身にもかかわらず母や妹からは疎まれており、かつて愛してくれた父の記憶とボクシングに懸ける夢によって生きている。 だからこそマギーがトレーニングに打ち込み、破竹の勢いでボクシング界を席巻していくのは爽快であるし、その後の全身不随になる展開にも心が痛む。

対してフランキーはそんな夢を追う彼らのブレーキ役として徹していた。 "時に最高のパンチは一歩引いたときに打てる"というモノローグの通り、前に出ようとする若者を最高のタイミングまで抑えるのが彼の役割であったし、それはかつてのパートナー、スクラップの事故で得た教訓でもあった。 しかし、物語序盤で今までパートナーであったウィリーに裏切ともとれる離籍を告げられ、その鉄の戒めが揺らいでしまう。 自らの行動は若者たちの邪魔にしかなっていないのではないかという疑念が、マギーのタイトル戦を早めてしまい彼女の怪我の原因となってしまった。 フランキーの多くのボクサーを引退に追いやったという罪の意識と娘への贖罪が終盤のマギーに対する献身に表れていたのは確かであろう。

物語構造はかなり複雑で、ロッキーのような刹那的な夢に懸けるサクセスストーリーの要素もあり、年齢も価値観も異なる二人がお互いの関係によって再生していく疑似家族としての要素もあり、まるでノンフィクション映画のようである。 深い影と差し込む光によって構成された画面がマギーやフランキーの心境のようで非常に印象的であったがちょっと目が疲れた。

ザリガニ