映画鑑賞会

サークルでやっている映画鑑賞会の感想アーカイブです。

劇場版少女☆歌劇レビュースタァライト

ニンチー 物語1、主題1、演出2、映像2、音楽1

前週鑑賞した「少女☆歌劇レビュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」の続編劇場版。 本作は本編であるテレビ版とその総集編である劇場版に対して後日談として位置づけられていて、その後も続く彼女たちの人生の始まりの一歩目として描かれているようと思う。 映画冒頭は九人全員の進路希望を写す場面から始まり、高校三年生になりトップスタァへの夢なんて最初からなかったかのように現実的な人生を進みだそうとする彼女たちが、その実心の内ではまだあきらめきれない過去のしがらみを抱えていることが明かされる。 トップスタァを目指す物語であった本編の後、文脈から解き放たれた彼女たちがどのように思いどのような選択をするのか、非常にフェアにそしてダイナミックに描いている点が本作の唯一無二の特徴であると思う。 ハッピーエンドや大団円を迎えられるのは創作の中だけであり、いつまでも続いていく現実を一つの文脈で語ることは不可能である。 そういった創作の中でだけ許されているご都合主義的な情報の切り取りによって一旦はハッピーエンドに終わった物語の隠された面と続いていく現実を描くことによってキャラクターをより人間として魅力的に表現することに成功していたと思う。 「魔法少女まどか☆マギカ叛逆の物語」もそうだが、本編を補足しつつ物語としても完結させる、続編劇場版としては完璧な形であると感じた。

ただ、個人的にはやはり主要メンツ九人は多すぎて全員の心情や過去まで追うことは難しかった。 前作の時もそうであったが九人の関係全てが描写されていたわけではなかったのでカップリング単位でバラバラの話になってしまったことが原因だと思う。 また、カップリングごとの関係も相手への執着が主で割と似ていたのでそこまで新鮮さはなかった。 反面、決闘シーンは舞台演出や背景がバラエティーに富んでいてかなり長尺であったが飽きることなく楽しめた。 前作の決闘シーンの気合の入りようはすごかったが、今作はさらにそれを上回ってアクションも舞台ギミックもアニメーションの面白さを存分に発揮していた。 ワイドスクリーンバロックを謳うだけはあり、決闘シーンのためだけにこの映画を見る価値は十分にある。

本作のテーマを考えるうえで作中で何度も引用されていたシェイクスピア作の戯曲「お気に召すまま」のなかの一節「この世は舞台、人はみな役者」を上げたい。 人生とはブロックに分かれた舞台のようで、個々の舞台の中ではそれぞれ自らの役を演じているが、ブロックとブロックの継ぎ目では選択と共に自らを変革させていく必要がある。 今まで舞台俳優としてトップスタァを目指すという役を演じてきた彼女らが新たな環境を望むため自らの過去や他の仲間とのしがらみを解決し新たな目標に向かっていく。 そのように未来の目標を自分の内面や過去の中から見出すという点が本作のキモであるように思う。

少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド

ニンチー 6点/10 物語1、主題0、演出2、映像2、音楽1

演劇をテーマにした挑戦的なオリジナルテレビアニメシリーズの総集編劇場版作品である。 演劇学校の九人の少女に焦点を当て、百合百合しい日常を過ごしたり、ミュージカルのように歌いながら戦ったりするアニメ。 総集編であるためかアクションシーンに優先的に尺を割いており、ずっと謎空間で戦っている印象であったが、戦闘のアニメーション的な面白さは抜群で飽きることなく楽しめた。 幾原邦彦的な演出も多く背景美術や記号、モチーフなどちりばめられた要素を追っていくだけでも考察しがいのあるアニメだと思う。 反面日常パートが短めで各キャラの掘り下げは比較的に薄い。 中心的に描かれているカレンとヒカリの性格はややテンプレ気味であったこともあり、全体的にキャラクターに魅力を感じづらかった。 また、完全に個人的な見解だが、トップスタアへの憧れや夢への努力といった概念に疎くあまり共感できなかったことも一因ではある。

演劇をテーマにしていることもあり、「スタアライト」という作中劇を中心に話が展開していき、主人公コンビの関係と重なる演出は見事だった。 夢を追い続けることの代償という負の側面も見せている公平性も重層性を生み出していたように思う。 各キャラの関係性はかなり考えて作られていたようで、実力は及ばないが夢に向かうことを恐れないジュンナに対し失敗を恐れ過去に囚われたナナなどカップリング単位で対比的な関係を描いていた。 逆に言えばカップリング以外の会話などはあまりなく、関係性はよくわからない。

オールド

ロードジャスティス C

人生とともに降りかかってくる社会的役割があるとしても、それと結びついた仕事や名前さえも忘れていられるのがバカンスでありリゾートという場である。だがこのイカれたビーチはそうした甘えを許さない。病気や出産となれば誰かが責任を負って対処しなければならないのに、時間経過で若さも身体能力も思考力も失ってゆく。登場人物たちはそうした人生の理不尽さと恐怖をハイスピードで体験する。外科医の一家(チャールズ、クリスタル、カーラ)はそれぞれの人生の問題に対する解答を見出せずに惨めな最期を迎えているようにも見える。一方ではじめから離婚するつもりだったガイとプリスカ夫婦は仲睦まじく穏やかに死んでいくが、彼らが最終的に見出すのは妥協ともとれるような人生への諦念である。異常な状況とは対照的にずっと美しいビーチの情景は、理不尽に満ちているのにそれを受け入れた者には魅力的に映るまさに人生の象徴のようでもある。サスペンスホラーを基調としながらも、即物的な恐怖ではなくテーマ的な一貫性をもってより人間の根源的な恐怖を駆り立てようとする点では「ミッドサマー」に近いものがあると思う。ただ個人的には同作ほど話にのめり込めず怖さも感じなかった。理不尽の原因が完全な自然現象として説明されるのではなく、序盤の伏線があって大きな社会による人為が絡んでいたというオチは物語としては納得のいくものだったが、このせいでテーマ性が薄まっているような気もしなくはない。

ニンチー 6点/10 物語1、主題1、演出2、映像1、音楽1

"寄る年波には勝てない"という言葉もあるが、まさしく波のごとく押し寄せる老いと死に対する恐怖を描いたホラー。 仕事や目の前の事に追われいつの間にか年を取っていることに気付くような感覚に近く、時間という自然が人間に等しく与える抗えない運命を描いているといえる。

リゾート地に訪れたキャパ一家はホテルの支配人に特別なビーチを紹介されるが、そこは30分で一年過ぎる不思議な場所だった。 ビーチに招待された11人は急速に病気が悪化したり、老いて錯乱状態になったりし、次々と死んでいく。 最後に残された姉弟が暗号を解いてビーチから脱出し、仕組まれた陰謀を明らかにする。

序盤から子供が意味深な発言をしたり、気味の悪いカットが合間に挿入されたりする展開があり不安を煽られる。 ビーチでは不可解なことが起き人間たちが対処に追われる中、波だけが一定のリズムで寄せては返すところに時間の理不尽なまでの超然性を感じた。 私自身も二十代後半に入り、年を取ることに対する恐怖は他人ごとではなく、自身のこれからの運命をまざまざと見せつけられているようだった。 特に、老化と共にいつの間にか増えている責任や固定化していく思考みたいなところにリアリティを感じた。 ラストの展開はせっかく作ったアイデアを惜しみなく使おうという執念を感じるが、そのせいで自然の恐怖より超常現象ですら利用してしまう人間の性という方向にぶれてしまっているような気がする。

ミリオンダラー・ベイビー

ロードジャスティス A

全てを失うリスクを負ってでも人生のなかで何かを成し遂げたい瞬間がある。ボクサーたちの戦いとはまさにそうした刹那的な衝動であり、繰り出されるパンチから逃げようとする生存本能に逆らって前に一歩を踏み出すようなものだ。止血の達人であるフランキーはノックアウト寸前に追い込まれたボクサーたちを再びリングに送り出してきた。それはボクサーが願う勝利への可能性をつなぐ重要な役割であるが、しかしそれはボクサーの人生を左右しかねない大きなリスクを覚悟の戦いを強いることでもある。ボクサーとしての終わりを迎えても、その後も人生は続いていくのだ。フランキーはそうしてスクラップを失明に追い込んでしまったことを深く悔いており、信仰に救いを求め、選手には最大限リスクを回避させてきた。だが結局はマギーの熱意を無視できず、悲劇的な結末を迎えることになる。中盤までの底辺からボクサーとしてのし上がっていくマギーの姿が爽快なだけに、終盤にマギーが半身不随になる展開はショッキングで辛かった。ただし、本作のテーマはボクサーの刹那的な生き方の悲劇性を強調するものではない。ボクサーとしての生を終えたスクラップはフランキーを恨んではおらず、マギーもボクサーとしての誇らしい死を望むのである。「モ・クシュラ」の意味は「愛する人よ お前は私の血」とのことだが、マギーの死はフランキー自身の一部、すなわちボクサーに寄り添う刹那主義的なフランキーもまたここで完全に死んだのだとも考えられる。闘争の人生は終わり、レモンケーキの店が彼の安らぎの地となったことが暗示されている。マギーの不幸な生い立ちやスクラップの過去など、各人物像もくどくない程度に丁寧に描写されており、ボクサーたちの生き様の光と影をフラットに描く姿勢が好き。クリント・イーストウッドの涸れた感じの演技もストーリーを引き締めていた。

ニンチー 7点/10 物語1、主題2、演出1、映像2、音楽1

感動モノの枠にはまらない、切実な夢と人生の選択について深く捉えた名作。 作中では自らの夢のために全てを懸ける覚悟と長期的に合理的な選択を行うべきだという、対立する二つの視点がマギーとフランキーという二人の主人公として登場する。 このどちらの視点も肯定的にも否定的にも描かれていて、ある種、二つの価値観を揺れ動く人間の葛藤がテーマであるともとれる。 前半と後半で全く違う映画のように感じるのはこれが理由であるように思う。

マギーはトレーラーハウスに住む貧困家庭で育ち、13歳から働いている喫茶店では客の食べ残しを包んで持ち帰るような生活をしている。 毎月の送金や家の購入などの献身にもかかわらず母や妹からは疎まれており、かつて愛してくれた父の記憶とボクシングに懸ける夢によって生きている。 だからこそマギーがトレーニングに打ち込み、破竹の勢いでボクシング界を席巻していくのは爽快であるし、その後の全身不随になる展開にも心が痛む。

対してフランキーはそんな夢を追う彼らのブレーキ役として徹していた。 "時に最高のパンチは一歩引いたときに打てる"というモノローグの通り、前に出ようとする若者を最高のタイミングまで抑えるのが彼の役割であったし、それはかつてのパートナー、スクラップの事故で得た教訓でもあった。 しかし、物語序盤で今までパートナーであったウィリーに裏切ともとれる離籍を告げられ、その鉄の戒めが揺らいでしまう。 自らの行動は若者たちの邪魔にしかなっていないのではないかという疑念が、マギーのタイトル戦を早めてしまい彼女の怪我の原因となってしまった。 フランキーの多くのボクサーを引退に追いやったという罪の意識と娘への贖罪が終盤のマギーに対する献身に表れていたのは確かであろう。

物語構造はかなり複雑で、ロッキーのような刹那的な夢に懸けるサクセスストーリーの要素もあり、年齢も価値観も異なる二人がお互いの関係によって再生していく疑似家族としての要素もあり、まるでノンフィクション映画のようである。 深い影と差し込む光によって構成された画面がマギーやフランキーの心境のようで非常に印象的であったがちょっと目が疲れた。

ザリガニ

アヴァロン

ロードジャスティス B

筋道立てて話を理解しようとすると相当難解、というか分かるように作品を作ってない。しかし根底にあるのは他の押井作品でも見られるような、人間の認知能力に対する疑義である。そこではバーチャルと現実、因果関係、記憶などが絶対的でなく置換可能で曖昧だ。作中に登場する3つの世界のいずれが最も「現実的」であるのかは意図的にぼかされているし、各人物の目的や思考も断片的にしか描かれていない。アヴァロンは伝説上で負傷したアーサー王が臨終を迎える場所だが、それを「英雄の魂の眠る場所」に見立てたネーミングである。アッシュたち歴戦の「ウィザード」メンバーはゲームではまさに「英雄」だが、しかしどこかでこの闘争から降りたいという願いを持っていたことが示唆される。アッシュの見るような色彩のない日常があり、ゲームにおける闘争がそこからの救済となるはずが、終わりのない闘争は日常と同化して現実世界と同様の成長主義が蔓延している。だから閉塞感を打破するための「ゲームクリア」の可能性がバックドアのような形で存在している。ただしそれが真の救済を意味するかどうかは定かでなく、植物状態になったマーフィの腑抜けた表情との対比があり、まさに表面的な事象からは何が真実なのは分からない。現実社会に生の実感を見出せない「英雄」の集う聖地(ゲーム)としてのアヴァロンがある一方で、闘争と成長主義から降りて平穏を得る場所(≒死)というダブルミーニングになっている気がする。最後の「Welcome to AVALON」は後者を意味していると考えるとよさそう。アッシュがゴーストに銃を向けるのは闘争の世界に戻るとも解釈できるが、ビショップらを使って「現実」を維持するためにゲームバランスを調整し、キャラクターたちを翻弄する製作者=神への反逆だと考えてもいいかもしれない。実写なぶん全体的に細かい表現のチープさはあり、あまりにも冗長なシーンが多すぎた気もするが、ゲームの世界も色がなく現実味のない「現実」もほぼ同じ質感で描かれることでテーマに説得力が生まれている側面もあると思う。あと音楽の使い方が印象的だった。労働の合間にゲーセンに行ってはPvPに熱中していた頃を思い出す。

ニンチー 8点/10

よいこ 3点/10

仮想空間と現実の混同をテーマにした作品。 全体的に会話シーンが少なく主人公が考えていることがわかりにくいため、感情移入しづらい。 ヴィジョップはゲームバランスの調整のため、シーフはマーフィーへの懺悔のため、マーフィーは楽園生活の享受のため行動していた。

Quanta 6点/10

・よくある「今認識している世界は現実か虚構か」を問う作品

・明確なメッセージを読み取りにくい。それは各自の想像・妄想・解釈を促すとも言える。だから、視聴後に話し合うことを目的とするのなら、良い映画だと思う。

・音楽は気分を高揚させるカッコいい曲であり、iTunes storeで購入したいと思ったほどだった。(結局売ってなかったけど)

【以下、感想】

(1)まず話の内容について自分なりの見解を示す:

主人公はゲームマシンを使って現実世界と虚構世界とを行き来する。 しかし、主人公にとっての現実世界では、他人が殆ど動かなかったり、犬が突然消えたり、書籍が全て白紙だったりと、夢やゲームのように不可解な現象が生じる。 だから、主人公が住む現実世界も、現実であるとは限らない。 一方で、主人公自身は

 ・虚構世界に行ったままの人間を戻そうとする

 ・現実世界で、愛犬のために熱心に食事を作る

のような行動をしており、主人公にとっての現実世界を生きるべき世界と考えているように見える。

(2)次に、本作品の主張?に対する自分なりの見解を示す:

「今、自分が認識しているこの世界が現実か虚構かを区別することはできない」と主張しても、何も得るものはないと思う。 この手の議論は議論をするための議論にすぎず、何も生まない。 そうではなく、例え夢か現か分からなくても、自分は何をしたいのかを考えて、好きに行動するのが、幸せな生き方なのではないか? 少なくとも、本作の主人公はあやふやな現実の中で、自分のやりたいことをやっている(自分らしく生きている)と思う。

ジョゼと虎と魚たち

ロードジャスティス B

外面は感傷的なボーイミーツガールだが身体障害のような社会的なテーマを扱う作品としてもそれなりに誠実さはあったと思う。序盤のジョゼの社会性に欠けたヤバ女感も出ていたし、求めるものに「手が届かない」葛藤や、不幸な存在が周囲にデバフをかけてさらなる喪失をもたらす痛ましさにもリアリティがあった。ジョゼを傷つける「虎」への恐怖や、祖母が亡くなった後の(かなり壮絶だったろう)日常生活はもっとえげつない描き方はできたと思うし、お互いが夢を追いかけるという結末は理想的すぎるといえばそうだけど違和感をあげつらうほどではない。エモいだけで終わる作品かと思いきや展開にも意外性があり、印象的な演出も多かった。ジョゼにとって海や魚というモチーフは、亡くなった両親との思い出であるとともに、人魚の夢に象徴されるような障害から自分を解放する空想的な理想状態を意味している。陸では這うようにしか動けず、社会で息ができない自分を人魚に例えている。そのように独自の世界観を持ち、それを絵で表現できることが辛うじて恒夫に依存しない彼女自身の救いなのだが、この内的世界についてはもっと説明がないと彼女の「夢」、すなわち1人で生きるよすがになり得るだけの説得力がない。この点はサガンを解する司書の人とのシーンがもっとあっていいはずで、尺の都合で削ったっぽく見える。一方恒夫は魚が群れているところを見るのが好きだと言っていて、片親で孤独だった自分を熱帯魚に重ねて、それよりは人同士が相互に関係し支え合うような世界を望んでいると読める。だからジョゼに対する気遣いにも金以外に彼自身の信念があったと思えるが、やはりそのあたりをもっと深掘りしてくれてもよかった。少女漫画っぽいという指摘は割と納得した。バイト先の女の心情描写がやたら丁寧で恐らく最も共感しやすいキャラクターなのではないか。

ニンチー 6点/10

映像、演出、感情表現という面では非常によかったと思う。 魚を夢や目標、虎を夢への障害や他人と捉えると、絵本の内容がまんまストーリーの解釈だと考えてよさそう。 夢への純粋な思いを全肯定し、障害を乗り越えて努力するキラキラストーリーということで個人的には関心の範囲外の作品ではある。 少し悪いことを言えば、ジョゼには鈴川に初めて会った時に見せたように足に障害を抱えて生きる中で醸成していった差別的被害意識があるようにも見える。 終盤虎に立ち向かうという決断をして鈴川の前から姿を消す展開はジョゼが自身の生き方を選択する意思が見える反面、まだそういった自身の被害意識を相対化できてなかったのではないかと思う。 そうはいいつつも、ジョゼに無責任に夢を追い求めることを望んだ鈴川が足を骨折したとたん自身の夢を諦めてしまうところなどは単純でない人間性に踏み込んだフェアな描写だと思うし、なんでも助けてくれる優しいお兄さんであるところの鈴川が弱さを見せることは少女漫画的文脈からの脱却をしているようでリアリティを感じた。 こういったシーンでの息が詰まるような絶望感は心理描写としてよかったが、少し語りすぎたきらいはあったように感じなくもない。 原作や他メディアでは全然違う作風のようなこともwikipediaに書いてあったので、今作は10代後半から20代向けのボーイミーツガールアニメとしてはいい改変だったんじゃないかなと思う。

よいこ 5点/10

ジョゼと恒夫に限らず、人と人の関わりによって、自己の抱える問題について前向きに向き合うようになる話。 おばあさんが意味深で言動の意図がわからない。

ザリガニ 6点/10

恋愛作品あるあるが詰め込まれていて万人に勧められるボーイミーツガール。原作や他の映像化も気になってくる。ツッコミ所が全て「ティーズ向けだから」「こいつら大阪人だから(ド偏見)」で説明出来るのが良い。"障害"への向き合いが令和にしてはステレオタイプだったのが不誠実。

最強の二人

ロードジャスティ

二人の人物が巨大な社会階級の隔たりを超えて親しくなるという話は他にもわりとあるだろうが、堅苦しい上流階級に対して下流にも人情味がある、みたいな安直な平等性を描いていないところに好感が持てる。ドリスの底辺の生活はしっかり悲惨で、その彼が上流階級に乱入して生活を破壊しかねない恐怖も描いていてリアリティを感じる。フィリップがドリスの何に惹かれたのかというと、自分の社会的地位におもねり身体障碍者として子守でもするように自分を扱う人々に対して、彼だけは裏表のない正直な思いで接してくるからだろう。とはいえドリスの言動は少々度が過ぎていて、普通に法を犯しているし、一部の発言もジョークの域を超えていて障碍者差別とみなせるレベルに思える。個人的にはこの点に若干の嫌悪感を抱いたが、はじめから一貫してフィリップがドリスを否定しないのは、やはりドリスの言動に何らかの妥当性を見出しているためだろう。それが何かははっきり描かれていないが、ドリスに影響されただけでもなさそう。フィリップは上流の文化を絶対視こそしていないものの、価値を認めていることは確かだ。むしろ彼は激しい階層分化や障碍者に対するポリコレ的「配慮」によって個々人に既定の振舞いと生き方を迫る社会そのものに退屈していたのではないか(いつもの結論)。

ニンチー

初めてのフランス映画。 全体的に間に余裕があり、音楽によって感情の盛り上がりが表現されていて感情を想像する余白があるところが印象的だった。 決して陽気な黒人が堅苦しいフランス上流階級の老人をいやすという一方的な分かりやすい関係ではなく、お互いの抱える問題や欲望をぶつけた双方向の関係につくりものでないリアルを感じた。 序盤の悲壮感漂う曲調からセプテンバーに変わるシーンが二人の人種や社会階層にとらわれないあけっぴろげな性格が感じ取れてよい。

よいこ

ドリスの若さややんちゃな部分をフィリップが受け取り、若さを取り戻した。 恋やいろんな面で。 パラグライダーはフィリップのやんちゃな趣味。

ザリガニ

洋画に登場する面白黒人枠の男が陰キャ車いすのおっちゃんを連れまわして二人でたくましくなっていくロードムービー。 音楽がおしゃれだった。