映画鑑賞会

サークルでやっている映画鑑賞会の感想アーカイブです。

セッション

ロードジャスティス A

途中までフレッチャーの努力至上主義とパワハラを認めるか否か、みたいなテーマの割とふつうの話かと思っていたので、終盤の展開では大いに驚かされた。フレッチャーのしごきに応えようとしたニーマンが人格的に破綻をきたして言葉遣いまで荒くなっていくように、生徒と教師のような関係のなかでは人間は良くも悪くも評価者に影響され、方向付けられてしまう。それだけでなく、父親、いとこ、気になる異性などそうした他者に認められたいがために、相手の要求する行動をし、相手の要求する存在に自分を当てはめようとする。血みどろになっても練習するニーマンの演奏家としての情熱が本物だとしても、彼の態度は常にどこか他動的であった。しかし最後の鬼気迫る演奏シーンでは、何かそうしたしがらみから解放され、真に自由な自己を手に入れたような強烈なカタルシスがあった。ここでひとつ考えたいのは、ニーマンはフレッチャーが気に入りそうだから逸脱的な行動をとったのかどうかという点である。ほとんど狂人と言っていいフレッチャーに辛うじて教師面をさせているのが「一握りの天才を育てる」という題目であるわけだが、本作のラストシーンはこの題目すらも超越しているように思える。自分の人生の平凡さに耐えかね、非凡な人物の非凡なエピソードを自分に採り入れようとするのは人間の性であり、それもまた他者の存在によるある種の枷であるといえよう。天才であるという属性を有する人間がいるのではなく、実際には経験的事象の積み重ねによって偶然に天才と呼ばれるようになった人間がいる、といった方が現実の認識としてより正確なのだと思う。ラストシーンでもはや教育者としての顔すらかなぐり捨てて純粋な悪意を向けてくるフレッチャーと、無敵の人と化してドラムを叩きまくるニーマンの間ではもはや社会は完全に無力化されている。この関係を何と呼んだらいいのかはよく分からないが、ある意味で対等さはあり、二者の間で交わされた満足げな笑みが非常に印象的だった。「フルメタル・ジャケット」もそうだけど「ファイト・クラブ」っぽいという感想にはなるほどと思った。

ニンチー 6点/10 物語0、主題2、演出1、映像2、音楽1

漫画の修行シーンだけを見ているような作品。 しかも、きついだけで特に結果が出るわけではない。 しかし、これこそが現実における修行である。 漫画では修行は特殊な能力や属性を獲得するための通過儀礼であるが、現実ではそんなものを存在せずどれだけ修行を積んでもただ知識と経験が積み重なって少しづつ理解と対応能力が深まっていくのみである。 これをやったから成功するとか何かができるようになるみたいな確定したものは何一つないし、それでも時間と気力を費やして修行を行わなければならない。

それではフレッチャーのパワハラが容認されるか、というとそんなことは決してない。 間違っていることと正しいことを明確に教授することが教育者としてあるべき姿であるし、実際に何人もの生徒を壊して学校からも追放されている。 ならば、彼は間違っていたかというと必ずしもそうとは言い切れないように思う。 フレッチャーの目的はあくまで音楽の天才を生み出すことであり、そのためには凡庸な生徒を犠牲にすることは厭わない。 彼自身の手段と目的は乖離しておらず、社会的に容認されないという一点を除けば彼は間違っていなかった。 これはニーマンにおいても言えることで彼のドラムへの打ち込みは常軌を逸していて、彼女を捨てたり追突を放置して血まみれで演奏会に出たり、とてもではないが社会的に容認される存在ではない。 フレッチャーにおいてもニーマンにおいても彼ら固有の欲求である天才を生み出すことあるいはなることという目的にとらわれすぎていて社会的な価値観を取り入れる気が一切ない点が問題なのである。 人間は自身の価値観と社会的な価値観の両方を併せ持ち個々のケースでうまく使い分けていくが、これにはスケール依存性があるように思う。 一般にプライベートな空間や短いタイムスケール、個人においては自身の価値観や行動を制限するものは存在せず自由であるが、公共の空間や長期的な時間、会社や国家などの人間集団においては社会的な価値観に従う必要が出てくる。 この映画においてもその点が存分に出ていて、お互いに学校から追放された二人が最後のシーンにおいてはお互いに最高の音楽を追求することが出来た。 長期的に、あるいは学校という集団においては間違っていた二人であったが、短い時間二人だけの世界においては目的が一致したのである。

以上のようにミクロとマクロという観点においてはマクロを投げ捨ててミクロを重視したような作品であったように思う。 全体的なシナリオの整合性はそこまでかみ合っていないが、個々の描写、しおれた楽譜だったり飛び散る血だったり、は非常に徹底して作りこまれていた。 自分は音楽の巧拙は全く分からないので音楽的な観点から語ることはできないが、ミクロの世界で自身を見出す話という意味では爽快で気分のいい映画だった。

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド

ロードジャスティス A

全体を通して構成にあまり一貫した意図を感じないというか、結局これってどういう話?というのが観終わってすぐの率直な感想だった。しかし、恐らくそれは映画が映画であるということ、すなわち映画が意図的に構成されるシーンの集合で観客にどこで共感させどんなメッセージを伝えるのか、という制作側の抱える恣意性に対してむしろタランティーノ監督が極めて意識的であるからだと思う。本作のタイトルからして「古き良きハリウッド」を懐古する映画としては、例えば最近観た作品でいうとイーストウッドがコテコテの西部劇の外枠を流用することでフィクションがフィクションであることを印象づけたのとは正反対に、物語として分かりやすく一貫性が明確な構造をあえて避けることでそれをやっているような気がする。タランティーノは相当なシネフィルらしいが、フィクションのお約束を愛しつつも同時にメタフィクション的な視点を持っているオタクがつくった映画という印象は多分にあった。引用たっぷりなのにもこの時代の作品に対する愛情と知識の豊富さを感じるし、フィクションとノンフィクションの境界を曖昧にしようとする狙いは随所に見受けられる。余談だが、これと似た印象を持ったのが藤本タツキの漫画を読んだときなのでやはりタランティーノの影響は大きいんだなと感じた。本作における「古き良きハリウッド」とは、古色蒼然とした勧善懲悪の西部劇が盛んに制作された時代であり、リックとクリフの青春(?)でもある。しかし時代は変わり、ヒッピー文化やマカロニウエスタンが全盛となり勧善懲悪の単純な人間観で社会を語れる時代ではもはやなくなった。リックもイメージを覆すような悪役で堂に入った演技を見せることで時代に適応してゆき、クリフとの関係も終わる。それでも最後はご都合主義の歴史改変で物語が終わるのは、まさにそれが「古き良きハリウッド」の最期の輝きであるかのようである。本作はとにかく個々のシーンの出来が素晴らしいが、このあたりの青春の終わりともいうべきノスタルジックな雰囲気は特に好き。あとはヘラヘラ笑いながら自分の出演シーンを観ているリックたちと、TVの前に張り付いて真剣にドラマを観ているヒッピーたちはあまりに対照的で、「ハリウッド映画が殺人を流布している」という話も含めてフィクションの作り手と受け手の間の非対称性が鮮明に描かれているのも面白い。これもタランティーノ監督の映画オタク的な視点が生きていると思う。文化の違いから昔の映画の引用や音楽など当時のアメリカ文化のディテールまでは理解が及ばないところがあるのはまあ仕方がない。

ニンチー 6点/10 物語0、主題1、演出1、映像2、音楽2

まるでドキュメンタリーのような一貫した物語のない映画だった。 一応1969年に起きたシャロンテート事件を題材としてはいるが、架空の人物であるリックとクリフの二人を中心とした1960年代アメリカの大量生産、大量消費社会とその反動として現れたヒッピー文化の渦巻くハリウッドを描いている。 全体的に作品を貫く主題が見当たらず、どの観点から見ればいいのか分からず非常に困った。 個人的には物語のきっちりした作品が好きなのでこの映画は興味をそそられる対象ではなかったが、レオナルドディカプリオとブラッドピットの渋いおっさんコンビは見ていてかっこよかったし、当時の文化や技術力の反映されたテンポのいい映像は見ていて飽きなかった。 自分の思った演技が出来ず俳優としての将来に不安を感じるリックや俳優としての成功を諦めてリックのお付きとしてトレーラーハウスで暮らすクリフのそれぞれの感情は良く理解できるし、彼らの友情も素直に心にしみた。 現実とは異なりラストはクリフが闖入者を撃退するハッピーエンドで終わるが、そういった現実改変もフィクションとノンフィクションの間にあるこの映画の魅力だと思う。 私は創作とは作者の感じる現実性を創作物の中で表現することだと思っているが、この作品はタランティーノ監督の現実性、創作観の詰まった映画なのかなと思った。

マイ・インターン

ロードジャスティス C

コメディとしてのテンポ感は悪くなく見やすい映画だった。ただ世代間のギャップというテーマをフラットに誠実に描けていたかというと正直疑問である。堅気で昔ながらの流儀を大事にするベンの紳士な振舞いは、ロバート・デニーロの演技にも支えられて確かにカッコ良いが、あまりに持ち上げられすぎてあざとい域に達しており、リアリティに欠ける印象だった。ピカピカのオフィスで働くキラキラのITアパレル業のバリキャリ経営者が最高にクール!という価値観(まずこれが鼻につく)を隠せておらず、そこに場違いなベンがやってきて意外な格好つけを見せるというところでバランスを取ろうとしている節があるが、少々先入観にとらわれた構図で単純に過ぎる気がする。やはりターゲットとしては30代以上の「もう十分大人だが、仕事に家庭に人生の正解がわからない」人々であり、彼らの有様を否定せず寄り添って、迷った時には正解を与えてくれる、そんな都合のいい存在がいてほしいという欲求が透けて見えているし、必ずしも70代男性の側のリアリティにはあまり寄り添えていないと思う。ベンがジュールスから完全に「安パイ」と思われているがゆえにホテルの自室にも入れてもらえることに違和感を抱くくだりや、最後CEOを断ったことをベンに報告したときの「そう言ってほしかったんでしょう?」みたいなセリフには、いいように扱われている老人サイドの抵抗を描いているように感じたが、やはり世代間の融和というところには達していない。例えばベタだけどベンも後悔と葛藤のなかに過去の人生を送ってきたような描写や、老いゆえに思うように動かない自分の身体を呪うみたいな描写は必要だったと思う。

ニンチー 4点/10 物語1、主題0、演出1、映像1、音楽1

作中に「絵本のページをめくるように」という表現が出てきたが、この映画もまさにそんな感じで絵本のように単純な原理で動く人間たちがコメディーを繰り広げる。 この映画に出てくる人間は深く物事をとらえていないので常にくだらない問題が発生するし、何か問題が起きても主人公が一言口を出せばたちどころに解決する。 シニアインターンを題材にしていると聞いて現実と関連のある示唆があるのかと思ったが、実際は水戸黄門のように主人公に都合のいいことしか起きない夢物語だった。 常にテンポよく切り替わる映像と小気味のいい音楽が分かりやすく登場人物の心情を見事に表現していて、何も考えずに見るには最適な映画に仕上がっている。 この先何の楽しみもない老人が見る子供だましのコメディとしては楽しめるが、それ以上の評価はできない。

ドライブマイカー

ロードジャスティス A

分かりやすいところでいうと、全編通して1つ1つのシーンの作りの丁寧さには感動した。物語の本筋はほぼ人物同士の会話の上で展開されるのみだが、西島秀俊の静かな演技、車での移動時に流れるテープ、バックに映る瀬戸内の風景、それらどれをとっても配置上の必然性を感じざるを得ないものばかりで、濱口監督のディレクションの入念さを感じられた。にもかかわらず全体的なテーマが難解に感じられるのは、おそらく監督の原作への理解度が高すぎて、無表情のまま人を褒めたりつまらなさそうにセックスをしたりするような、村上春樹らしい曖昧でメランコリックな心情描写と世界観さえも再現し得ているせいだろう。家福と音の人生は娘の死とともに壊れてしまい、物語の構造を借りてことで辛うじて互いの本質を語り得ているような状態なのだと想像できる。しかし音の録音したテープが流れる家福の自動車の車内でなら、仕事という建前のもとチェーホフのテキストを媒介にすることで自己の感情を見つけ出すことができる。人生にかつて抱いていた願望は叶わず、どこか自分のものではない現実にすり替わっている。であるならばもはや人生は既存の「自分」という殻を演じるだけの広義の舞台にすぎず、本物の感情とパフォーマンスとには何の境目もないということになる。だから家福やみさきがそうしたように、演出家やドライバーといった役柄を演じてさえいれば、自分の人生が空虚であることに向き合わずに済む。しかしチェーホフのテキストは演者の演者のままの姿を暴き立てる。劇中の「ワーニャ伯父さん」の劇の手法にも恐らく意図がある。役をベースにすればテキストに感情を乗せることは容易いし、言葉上のやり取りだけで感情が伝わるなら台本を台本として語るだけでいい。だがこの共通の言語さえ存在しない奇妙な劇中劇で目指されていたのは、演者が演者自身の感情を自然に発露させ、単なるフィクションの枠を超えて観客に作品のメッセージを届けることだったと思う。演出家としての家福の狙いは恐らく成功し、みさき、高槻、そして自分自身までもが隠していた(あるいは見失っていた)本質をさらけ出す。みさきが母を見殺しにしたこと、高槻の衝動的な生き方、家福が音に贖罪をさせようとしなかったこと、これらは正面から向き合うことを恐れてきた「罪」である。対して、唖者の女優はまさにそうした人生への絶望を越えて、それでも「生きる」を決断を経験した人物である。だから罪を贖ってでも、人生の空虚さと対峙してでもなお生きなければならない、というラストのメッセージは彼女から語られる必要があったのだろう。私自身、こうして感想を書いている時も、できるだけ素直な思いを述べたいと思ってはいてもやはり「感想を書いている人間」のふりをしなければうまく言葉が出てこないと感じる。そうした他人に誠実なポーズをした仮面すらも揺さぶってくる作品を、他者として扱ったうえでどう評価すればいいのかはとても悩ましい。しかし特別な後味を残す作品であったことは間違いない(陳腐な感想)。

ニンチー 8点/10 物語2、主題2、演出2、映像1、音楽1

HERO

ロードジャスティス S

まずビジュアル面でのクオリティには圧倒されるものがある。どこを切り取ってもカッコ良い構図、大胆かつ印象的な色彩感覚、背景美術の美しい宮殿や雄大すぎる自然の風景、エキストラをふんだんに使った合戦シーンの迫力。そしてもちろん中国映画らしいハッタリの効いた戦闘シーンのアクションも見応えたっぷりである。例えば三国志を読んでも感じるが、中国の英雄譚では英雄豪傑たちの活躍ぶりはハチャメチャで現実離れしている。けれども古代の、あの広大な中国大陸にならこんな怪物たちがいたのかもしれないと思わせるロマンがある。本作のアクションはワイヤーを使っているのを隠そうとしていない節があるし、嘘くさいといえばそうなのだが、古代中国ならばこれで全く正解なのである。4人の刺客たち、武の神髄を極めた達人たちならばこのくらいできてもおかしくないという開き直りが小気味いい。書と剣技の奥義は同じ、という話や剣を持たない姿勢こそが剣の最高極致だという話もやはり神秘性を湛えた中華ロマンの延長上に捉えられるからこそ重みと説得力を帯びてくる。中島敦名人伝を思い出した。また、メインの話は無名と始皇帝との会話中の伝聞や推理のなかで展開してゆくという全体の構成も面白いものだった。無名が自分の手柄を語って始皇帝に近付いたあとで、始皇帝が無名の「十歩必殺」を見抜くものの既に必殺の間合いに入っていることに気づくというシステマティックな推理パート(?)によってその後の対話シーンの息詰まるような緊張感が作り出されているのも脚本の妙というべきだろう。刺客たちはただ自らの剣が皇帝を殺し得るほどのものだったことを知るのみで彼を殺さずに死んでゆく。残剣という知己を得たので死んでも悔いはないと言い放つ始皇帝も含めて、この辺りは人の命が軽くて個人の命運にあまり拘泥しない大陸的(東洋的)な「英雄」観が出ていると思う。刺客たちのような突出した「英雄」が歴史を動かす時代は一旦終わり、始皇帝法治主義による俗人的な治世が平和を作り出したのだ、というような歴史観はありそう。総じて古代中国のロマン主義的な世界観をバカでかいスケールと意欲的な演出で描いた傑作だといえる。

ニンチー 6点/10 物語1、主題1、演出1、映像2、音楽1

映像はアクション主体でありながら、主人公である無名の語りを中心に進むミステリー的映画。 4人の刺客の話と言えど、残剣と飛雪の話だけで半分以上ありほとんど二人の話が中心だった。 2002年公開ということでワイヤーがあからさまな部分もあるがアクションは躍動感があり、全体的に中国らしい美しさと壮大なスケール感のある映像が魅力的だった。 背景や服の色合いの調和がすばらしく、服の色でシーンを分けているのも分かりやすくてよかった。 ただの暗殺で終わらず中国らしい徳を求める思想みたいなものが落としどころとなっているのも納得感があった。

よいこ 6点/10

映像の7割がアクションシーンであったが、飽きさせない動きの連続で楽しめた。 残剣と飛雪の思惑の違いが随所に表現されている。

ザリガニ

荒野のストレンジャー

ロードジャスティス B

西部劇らしいゆったりとした間の取り方は古めかしい画質とも相まって逆に新鮮だった。無表情なイーストウッドが住人たちの及び腰な姿勢につけ込んで無茶な要求をしていくくだりはコメディとして見ても笑えた一方で、主人公の描き方としてどうなんだろうと中盤までは思っていたが、最終的にはそこにテーマ性が出てくる展開には納得がいった。一見平和な普通の町のようでいて、実は町全体で無実の保安官を利益のために殺してそれを隠蔽している。そうした「地獄」にも似た社会の欺瞞と無責任さを暴くのがよそ者(ストレンジャー)たるイーストウッドである。ゆっくりと町に入ってくるイーストウッドを町の人々が怪訝そうに覗いているシーンはまさに社会ないし自身の内面にある矛盾を暴かれることへの恐怖を象徴しているような気がした。しかし同時に、破滅してでもそうした矛盾をさらけ出して誠実に生きたいと考えるのもまた人間の性であり、宿屋のおばさんの描写はそうした心性を表しているように見える。「町にふらりと現れたガンマンが、悪党を撃ち殺して終わり」という西部劇の構造を踏襲しながらも、単なる勧善懲悪とは全く異なるテーマ性を叩き込んでくるところにイーストウッドの作家性が表れているような気がする。普段印象的な演出や心情の暗喩を使ってテーマを表現する作品ばかり観ているが、そんなに凝った演出をせず古典的な(?)表現だけでもテーマ性を込めることは可能なんだな~というところに何か逆に真新しい驚きがあった。

ニンチー 7点/10 物語1、主題2、演出1、映像2、音楽1

おそらく既存の西部劇の構造を利用したであろう超自然的な作品。 いわゆる西部劇(見たことないので推測)では街に現れた無頼者の主人公が悪者を倒しヒロインを救うというような善と悪のはっきりした分かりやすいストーリーが典型的であると思うが、本作は一味違う。 開始まもなく街に現れたクリントイーストウッド扮する主人公はいきなり無銭飲食、殺人、強姦とやりたい放題ぶちまける。 この時点で度肝を抜かれるが、意外にもそれらの蛮行に対して街の人々は腫れ物に触るように遠巻きに眺めるのみであり命令されればおとなしく従う。 いきなりの期待を裏切るような展開に違和感が先立つが、この違和感の正体はのちに明かされる。 実は、街の人々は金鉱の採掘権を不当に保持するためにかつての保安官を殺害を計画し、その現場を見て見ぬふりをしていた。 そのため、街の人々は保安官を見殺しにしたことによる罪悪感と主人公の腕っぷしの強さから不当な扱いを甘んじて受け入れていたのである。

この映画における主人公は一人の登場人物としてではなく、怨霊や自然の摂理のような存在として登場する。 彼の行いは街の人々に負けるとも劣らぬ人道から外れたものだが、この映画の場合は彼の蛮行をもって街の人々と比較して評価することはできない。 彼はある種舞台装置のようなもので、町の人々の保安官殺害に加担した罪悪感や条理を願う心が具現化した存在であると考えたほうが良い。 主人公が市長と保安官の地位を街で最も蔑まれている男に与えるシーンがあるが、人の善悪を越えた存在の前では人は皆同じであると社会的地位を嘲笑っているようである。 彼らは元々内在的に善良でありたいという意識と自らの行いという矛盾した心の歪みのようなものを抱えていて、外部の存在によってそれらが噴出したに過ぎない。 最後は主人公が殺害された元保安官の彷徨える魂であったような示唆があって終わるが、このような超自然的な存在によって自らの抱える問題に向き合う作品と言えば「ブギーポップシリーズ」や「むこうぶち」が思い出される。 いずれにせよ表層的な物事の顛末や善悪を描いているのでなく、人間性や心情の変遷を描いている点を個人的には評価したい。

映像的にはカラッと晴れたアメリカの荒野と赤く塗られた街の景色が、主人公の復讐によって傷つき、それと同時に罰を受けたことによって安堵している心の情景のようで非常に気持ちがよかった。 全体的に間延びしたようなゆったりとした尺の取り方が多かったが、退屈を感じることなく鑑賞できた点はよかった。 復讐劇と言ってよいか勧善懲悪と言ってよいか難しい作品ではあるが、最後には正しい地点に落ち着いた感覚があり、爽快で良い映画だったと思う。

よいこ 5/10

冒頭に流れ者が絡んできた3人を撃ち殺し、町娘を犯すことで、流れ者が善人ではないことが印象付けられた。 ラーゴにはよそ者を嫌う悪習があった。 宿屋の夫人は流れ者の正体に気付くとともに町の悪習に嫌気がさし、待ちを出ていくことを決意する。 一方、町娘は町の悪習に加担しているので、夫人と町娘の対照的な人物像がある。 最後に流れ者の正体がわかってすっきりできた。

ザリガニ

ジャンヌ・ダルク

ロードジャスティス A

ジャンヌ・ダルクを抑圧的な中世社会に殺された悲劇のヒロインとして描くこともできただろうが、リュック・ベッソン監督の解釈は一人の人間としてリアリティをもったキャラクター像を真摯に描くことに成功しているように思える。前半の神に使命を与えられたと信じて疑わないジャンヌは迫力がすごくてホラーに片足を突っ込んでいたし、殉教者としてでなく最後は自らの罪を自覚して火刑にかけられる後半の展開にも説得力があった。人々は教会の教えや英雄譚、神のお告げのような物語を欲する。そうしなければ自分の生き方にさえ迷って決められないからである。処女性や単なる油などに特殊な意味を見出す迷信深い中世の価値観を笑うこともできるが、本作はそのように多面的で不確実な存在として人間を捉えているといえる。シャルル7世やオルレアンで戦った兵士たちはジャンヌの盲信なしには立ち上がれなかったし、ジャンヌを裁こうとしたカトリックの司教たちも彼女を異端とすることに確信を持ってはいなかった。そしてジャンヌ自身も、姉を殺されたことへの復讐に大義名分をつけるために「神」を騙ったにすぎず、戦いの高揚から信仰をおろそかにしていたという(あくまで可能性の域を出ない)「罪」を自覚するという展開は、まさにキャラクターの物語からの解放を意味している。そうした本作の姿勢には感銘を受けた。「ジャンヌの良心」ことフードのおっさんはジャンヌの分身として悔悟を促す役と捉えることもできるが、「(真の姿の)神」だと考えてキリスト教の信仰の本質について考察することもできそうである。監督の真摯さは中世ヨーロッパの世界観を表現する建物や人物の服装などのディテールにも行き届いていて、歴史的正確さを判断するだけの知識は正直ないけどかなり念入りに考証がなされているように感じた。甲冑のデザインがめちゃくちゃカッコいい。戦闘シーンの泥臭さというかなし崩し的に人々の生死が決定されてゆく感じもテーマと合っていて良かった。無暗に突撃し続けるジャンヌにやれやれ……とついていくジル・ド・レやラ・イル、真っ当に冷静な判断をしようとしているのに制止役に回らされるデュノワ伯のくだりはアニメみたいな面白さではあるが、まあ史実自体がアニメ(奇跡)なので仕方がない。難癖をつけるとしたら後半では前半とは対照的に観念的な話で終わるので映画っぽいカタルシスがあまりない、という点くらい。歴史ものとして傑作だと思う。

ニンチー 7点/10 物語1、主題2、演出2、映像1、音楽1

よく知られたジャンヌダルクの英雄譚が、現代の視点から見ても耐えうる形で内省的物語として見事に再現されている。 映画はシャルル七世の戴冠を境に装いを異にし、前半では神の啓示に従い不当に貶められた祖国フランスを救うために無謀にも戦場に飛び込むジャンヌの狂気が描かれる一方、後半ではイギリス軍に囚われた牢の中で多分に神学的なジャンヌの自問自答が描かれる。 全体的にフランスの村社会での土着的なキリスト教の様子や戦闘シーンの泥臭さなど中世の世界観を見れたのは面白かった。 不思議な風や天からの声など曖昧な神の啓示を盲信しことあるごとに告解を求めるジャンヌに対して、自らの社会的地位に悩むシャルル七世や戦場という圧倒的な現実に生きるジルドレやライル、神というより教会の権威と法に従うピエールコーションなど中世の世俗的な世界で生きる人々の様子が対比的で面白い。 ジャンヌの狂気的な信仰心は現代を生きる我々には(当時の人ですら)理解しがたいものがあるが、後半でその信仰心がいったんは打ち砕かれ、神との対話によって回復していくという展開によって現代人にも受け入れやすい話になっていたと思う。 ただ、序盤に姉を殺されたシーンが入ることでジャンヌの英雄的な理想が個人的な復讐に矮小化されている気がして個人的には不服だった。 終盤牢の中でジャンヌが「戦場では人々が大義をもって戦っていると思っていた」と発言するシーンがあるが、これは神に禁じられた殺人を正当化するためには神の使命や大義が必要であるはずだが自身の信じていた大義ですら個人的な復讐が根底にあることを認めたことを示唆している。 監督はそれを意図して、つまり、ジャンヌの持つ大義と個人的な体験を結び付ける形でジャンヌの内面を描いていると思われるが、脚色としてありきたりな設定に感じなくはない。 戦闘描写含め全体的に中世の雰囲気がよく再現されていたように感じるが、本来歴史には表れないジャンヌダルクの内面を描いている点で歴史を題材にした創作として楽しむべきであると思う。 「ジョーカー」のように原作(史実)を題材にして、人間性に切り込むための映画として見るならば良作であるように思う。

よいこ 4点/10

戦闘シーンはジャンヌの狂気がよく表現されていた。 ジャンヌは最後まで信仰を捨てず、自分の犯した罪(兵士の死)に対して告解を求める。 ジャンヌの鬼気迫る迫力ある演技がすばらしい。

ザリガニ